ウェンレーティンの
野望編

第二十二章
クリスとご主人様


 あれから30分くらいは経っただろうか。

 もうすっかり夜が明けていた。

 俺は舟をあのまままっすぐ進ませ、もう対岸の近くまできていた。

 俺は速度を落とすため、マストの位置に歩み寄って帆の向きを調整しに行く。

 マストの根本にはマストを挟んで背中合わせにマリアとクリスが寝ている。

 疲れていたんだろう。マリアはすやすや眠っていた。

 ふとクリスに目をやるとクリスはビクッとして突然立ち上がった。

 真っ青な顔をして呆然と佇む。

「ご・・。ご主人様ぁ!!?」

 俺が声を上げる前ににクリスは叫びながら船尾へ走り、カストリーバの方を見た。

「クリス?」

 俺がクリスの横へ歩み寄り顔を覗き込んだ。

 クリスは涙を流していた。

 今まで見せたことのない、深い悲しみと絶望感を漂わせた表情。只呆然とカストリーバを・・いや、更に遠くの何かを見ているようだった。

「クリス?いったいどうしたってんだ?」

「あ・・テイファさん・・。」

 クリスは涙目のままで俺に振り向いた。そして堰を切ったように涙がどっとあふれる。

「どうしたんだよ。突然泣き出したりして・・。」

「う・・。ぐすっ。」

 クリスは言い辛そうに言葉を詰まらせるとまた遠くの何かに視線を戻した。

「その・・。」

 クリスは言い辛そうに間を取った

「ご主人様が・・。ご主人様が・・。」

 クリスはそこまでいうと力無く座り込んだ。そして俯いたままボソリと呟いた。

「亡くなられました・・ですぅ・・。」

 がっくりとうなだれるクリス。

 俺の前では堪えていた涙があふれ出すようにこぼれた。

 ヴァーン・ハールが死んだ?

 一体何故だ?

 いや、それ以前にどうやってその事を知ったんだ。

 夢でも見たのか?

「クリス。寝ぼけて・・」

「寝ぼけてなんかいません。

 夢なら・・良かったのに・・ですぅ・・。」

 クリスは甲板に両手をついて声を殺して泣き伏せる。

 俺はヴァーン・ハールの居場所を知っているわけではないが相当離れているはずだ。

 しかしクリスを見る限り、嘘とも冗談とも思えなかった。

 一体どうやってヴァーンの死を知ったのだろう。

 気にはなったが今はそんなことを訊ける雰囲気ではなかった。

 一体何故ヴァーンが死んだのか。

 考えられる可能性としてはやはりウェンレーティンの線が一番濃いか。

 居場所を突き止められ乗り込まれて殺されたか、あるいはウェンレーティンに捕らえられ拷問付きの尋問による死か。

 老衰という線も考えられるがその可能性は極めて低いように思えた。

 泣き続けるクリスに俺はしばらく声をかけることが出来なかった。

 

「なぁ、クリス。」

 クリスが少し落ち着いてきたところを見計らって俺はクリスに声をかけた。

「ヴァーン・ハールとの思い出話、良かったら聞かせてくれよ。」

 まだ10代半ばの少女であるクリスがこれ程慕っていた理由が少し気になった。

 どうもただのメイドというわけではないような気がする。

「ご主人様・・ですか?」

「ああ。」

 俺は帆を調節し、徐々に速度を落とさせながら頷いた。

 クリスはそっと立ち上がり俺の方を向いて話し始めた。

「ご主人様は・・身寄りの無かったわたしを拾って育てて下さったんですぅ。

 何も知らなかったわたしに、色々なことを教えて下さいました・・。」

 クリスは懐かしむようにまだ空に見えている月を見上げた。

「お料理やお掃除、お洗濯、森の木の名前、鳥の名前、花の名前、

 世界のこと、魔法のこと、挙げきれないくらいのことを毎日じっと教えて下さったんですぅ。」

 俺は黙って耳を傾ける。

「わたしが教えて貰ったことが出来るようになるととても喜んで下さって。

 わたしの頭を撫でてくれるんですぅ・・。よく頑張ったねって。

 そうして貰えるととても嬉しくなってまたいろんな事が出来るように頑張るんですぅ。」

 話しているうちにクリスの表情は次第に軟らかくなってきた。

 クリスは色々な思い出話を話してくれた。

 クリスが初めて焼いて焦がしたパンをおいしいと言って残さず食べてくれたこと。

 肩たたきをしたらとても喜んでくれたこと。

 広い屋敷を毎日一生懸命掃除したこと。

 毎日腕によりをかけて食事の用意にいそしんだこと。

 クリスはとても平凡な事を生き生きとした目で本当に楽しそうに話した。

「・・わたし、ご主人様と2人で暮らしていてとても幸せでした。

 こんな日がずっと続くんだって信じていました。

 永遠にこの幸せな日が壊れることはないって。」

 しかしその幸せな時間はウェンレーティンの襲来により幕を閉じる。

 クリスはその日の話に移ると途端に声のトーンを下げた。

 

 

 

 鬱蒼と茂る人里離れた森の高台にひっそりと建つ洋館があった。

 人を寄せ付けぬ不気味な雰囲気に包まれた洋館は木々に囲まれているため昼間でも暗い。

 クリスはその日も早起きをしてご主人様のためにおいしい朝食の用意をしていた。

 最近のご主人様は少し体調を崩しがちで、この日も体にいい栄養満点の特製スープと生地に薬草を練り混んで焼いたパンを用意し、鼻歌混じりにご主人様のお部屋へ膳を運ぶ。

 主人様の部屋の前につくとクリスは一旦膳を置き、扉をノックした。

「ご主人様ぁ。おはようございますですぅ♪」

 この日もクリスは元気いっぱい。

 いつものように扉を開けると、ご主人様はもう起きていた。

 ベッドを降りて窓を眺める老魔道士の姿を見つけ、クリスは喜んだ。

 最近寝込むことが多くなったご主人様が今日は調子がいいみたいなのだ。

 それからいつものように2人で朝食を食べた。

 なんてことのない朝の風景。

 でもこの日でその風景も最後だったなんてクリスは夢にも思わなかった。

 朝食が終わるとご主人様はクリスに後で書斎に来るように言った。

 書斎はクリスにとって色々なことを教わる教室。

 久しぶりに何か新しいことを教えてくれるんだ。クリスは期待感を胸に、朝食の後片づけをすませて書斎へ急ぐのだった。

 

 森の木を突き抜けた位置にある尖塔最上階部分。

 ここが老魔道士、ヴァーン・ハールの書斎だった。

 彼は窓から外を見下ろしつつ呼び出した、たった1人の同居人に深刻な面持ちで話していた。

「クリス・・。良く聞きなさい。わしからの最後の頼みだ。」

「ご主人様そんな・・最後だなんて・・。どういう意味なのですか?」

 クリスは突然そう言われて頭が真っ白になった。意味が理解できない。いや、したくない。

 何か楽しいことを教えてくれるんじゃなかったのですか?

 久しぶりに遊んでくれるのではなかったのですか?

 泣きそうな顔をして老魔道士の背中を見つめるクリス。

 振り返ったヴァーン・ハールは、実の娘を見るような優しい目でクリスを見た。

 クリスはその目を見て理解した。

 自分がご主人様にどれ程愛されているかを。そしてこれから話されるであろう事がご主人様にとってもとても辛いことなのだと言うことを。

 我が儘は言えない。

 クリスがご主人様を困らせるようなことは絶対にあってはならないのだ。

 クリスはご主人様との幸せだった時間が終わりを告げたことを知った。

 クリスは泣いてご主人様に抱きつきたい衝動を必死に抑え、平静を装って話を聞いた。

「もうじきウェンレーティンの手の者がここに来る。わしの所有する覇王の槍を狙ってな。」

「覇王の・・槍?」

「うむ。所有者を覇王の道へと導くと言われておる槍でな。

 ウェンレーティンはわしが古代魔道武具の研究を続けておったのを知り、これを奪うつもりらしい。

 わしももう少し若ければ追い返すこともできたじゃろうが・・。歳を取りすぎた今では守り通すこともできまい。

 しかしこれは絶対に奴らに渡してはならぬのだ。

 奴の手に渡ったが最後、何をしでかすかわからん。だからお前にこれをある男の元へ届けて貰いたいのだ。」

「ご主人様・・。」

 クリスは一振りの槍を受け取った。

「よいか?心して聞け。その男の名はマイク・アンダーソン。

 お前も大好きな・・わしの一番信頼を置いてある弟子だ。」

 マイク・アンダーソン。時々屋敷を訪れる銀髪の青年。

 ご主人様の弟子で冒険者をしているという人だ。

 ここに来る度にクリスにお土産を持参し、遊んでくれるとてもいい人だ。

 屋敷につきっきりのクリスがご主人様以外に知る唯一の人。それがマイクだった。

 今度はクリスの方から彼の家を訪ねる。

 森の外に出たことがないクリスにとって考えもしないことだった。

 地図を貰い、最後の授業を受けた。

 旅についての様々な説明を受け、知らないことを教わると言う望みは叶った。

 だがこの日だけは頭を撫でられても嬉しくはなかった・・。

 

 

 

「旅を始めてたくさん怖い目に遭いました。

 山賊の人に襲われそうにもなりましたし、

 街道を行く冒険者の人にも襲われそうにもなりました・・。

 街ではかばんをひったくられそうになったり、わたしに声をかけてくる人達はみんな、怖い目をしていました。

 ・・そんな中、皆さんに会ったんですぅ。

 最初はびっくりしましたけど、マイケルさんとキッドさんの目を見て安心しました。

 旅に出て初めて庇ってくれる人に出会い、とても嬉しかったんですぅ。

 今までずっとご主人様に護られてきたから・・。

 1人旅はとても寂しかったんですぅ・・。

 だからこの出会いはとても嬉しかったですぅ・・。」

 

 クリスにとって、ヴァーンは実の父親以上に慕っていた存在だった。

 死に目にも立ち会えず、遺体と対面することも叶わない。

「辛かったんだな・・。」

 クリスが話し終え、俺は呟いた。

「だがクリス、今は1人じゃない。

 ご主人様の替わりにはなれないが、寂しい思いはさせないし、悲しければ慰めてやる。」

「はい・・。ありがとうございます・・ですぅ。」

 もうすぐ岸に着く。

 俺はまた舟を減速させ、接舷用意に入った。

 舟を岸につけるまでの間、クリスはじっと遠くのご主人様だけを見つめていた。

 船速が十分落ちたところで帆をたたみ、操舵席に戻って舟の向きを変え、岸に接舷する。

 カストリーバ港の方を見てみると俺達を捜索しているのだろう。漁船が慌ただしく出始めている。

 ゆっくりとはしていられなかった。

「クリス、着いたぞ。」

 俺はクリスに声をかける。クリスはまだ泣いていた。

「テイファさん・・。」

 クリスは涙目のまま俺に振り返る。そしてぐいっと涙を拭った。

「泣いてちゃだめですぅ。ご主人様の最後のお遣いですからちゃんと届けなくちゃ・・。泣いている時間なんてないですぅ。」

 そう言ってクリスは立ち上がり、涙を拭った。

「テイファさん・・。みなさんにお気を遣わせたくないですぅ。ですから今のことは内緒にして置いていただけませんか?」

 クリスは決意を新たにしたような顔つきで俺にそう言った。

「ああ。わかったよ。約束する。

 追っ手が多数、出ているようだ。すぐに皆を起こして出発する。用意を急ごう。」

「はいですぅっ♪」

 クリスはさっきまでの表情が嘘のように嬉しそうに微笑んでいた。

 そのままバタバタキッドの方へ駆け寄り、いつもの明るい口調でキッドを起こしにかかった。

「キッドさん、おはようございますですぅ♪」

「ん・・もう着いたか。」

 少し揺さぶるだけでキッドは覚醒する。

「はい。つきましたですぅ。」

 にっこり微笑むクリスからは無理に笑っているようなそんな感は全く感じられない。

「キッド。追っ手の舟が結構でている。早く離れないとここもまずい。」

「ああわかった。

 テイファ・・。寝ずの繰船、すまなかったな。すぐに落ち着ける場所を探して休もう。」

 キッドは申し訳なさそうにそう言うとクリスと一緒にマイケルを起こしにかかる。

 俺はマリアを起こしにかかった。

 しかし・・。

「すぅ・・すぅ・・。」

「おーい・・。」

 マリアは声をかけても起きず、ほっぺをつついてもうーんとうなるだけで目は醒まさなかった。

「昨夜は大活躍だったからな。無理もないかな。」

 幸せそうな顔をして寝ているマリアの寝顔を見てキッドがくすりと笑う。

「笑い事じゃないぞ・・。早くここを離れにゃならんのに。」

 まだ敵をつき離しているとは言え笑っていられる状態ではない。

「わかっているって。マイケル。悪いけど俺の荷物頼む。」

「はいはい。わかりましたよ。」

 マイケルは俺が借したままだったポーチ型ウルバックにキッドの荷物を収め、自分のザックに放り込む。

 キッドはマリアを負ぶり、舟を降りた。

「取りあえず落ち着けるところまで移動だ。そこでまたしっかりと仮眠を取ろう。」

 俺は舟から全員が下りるのを確認してから帆を広げ、風向きにあわせて角度を調整し、降りてから湖側に舟を蹴り出した。

 無人の舟はのそのそと進んでいたがやがて風を捕まえ加速していく。それを見届けてから俺達は歩き始めた。

 俺達が上陸した場所は盆地の端ですぐ山になっている地点だった。

 ここから山の森に紛れてトリスタンを目指す。

 大きく遠回りにはなってしまうが今の状況では仕方がない。

 山に入り、先頭に立っているマイケルがキッドのアクスを借りて道を切り開いて行く。

 元々道がない場所だ。この中を進んでいくのには相当な労力と時間がかかるだろう。

 俺達は比較的通りやすい場所を選び、山道を進む。

「しかしこんな所で道に迷ったらどうしようもないな・・。」

 キッドが思わず不安を口に出す。

 街道から遠く離れ、方角と勘だけで道無き道を進まねばならないのだ。

 こういった道に相当なれていないと不安に駆られるのも仕方がないことだ。

 だがここには俺様が付いている。

 俺はこの道中を迷わずに切り抜けられる自信があった。

 

 

 

 所変わってベルドリューバ王宮。

 かつてメリア王国の王宮だったこの地は現在、ウェンレーティン侯爵家の屋敷と化していた。

 ウェンレーティン侯爵家現当主、アルバート卿ウェンレーティンはこの日も天蓋付きの豪奢なベッドで目を醒ました。

 無駄に広い寝室には既に侍女達が当主の目覚めを待機している。

 裸体のままベッドから降りるとそばに待機していた侍女達が早速服の着つけにかかった。

 その場に執事の老人がうやうやしく一礼をし当主の前に歩み出た。

「おはようございます。大旦那様。

 大変申し上げにくいことですがご報告がございます。」

「爺か。何事だ?」

 侯爵は三名ほどの侍女達に囲まれたまま問う。

「は・・。それが先程入りました報告によりますと、ヴァーン・ハールのメイドは途中合流した冒険者と共に湖から舟を奪って逃走したと・・。」

 報告を聞いた侯爵は明らかに表情を歪ませた。

「カストリーバの衛兵どもは何をやっていたのだ。かの地で取り逃がすなどと考えられんことだ。

 それともその冒険者達が優秀すぎる輩なのか?」

 静かだがその言には明らかに怒気が含まれていた。

「は・・。話によると魔術師も加わっているらしく、1人の死者も出さずに港を突破されたとのことです。

 衛兵部隊は魔術師の魔法に翻弄され、抵抗らしい抵抗もできなかったとか。

 メイドと男女それぞれ2名ずつの計5人。優秀な冒険者を味方につけたようです。」

「ぬぅ・・。」

 着物の着付けが終わり侍女達は侯爵に背を向けないように後ろ向きのまま一礼し、部屋を退出する。

 部屋には侯爵と執事の老人だけが残った。

「それと今朝方、ヴァーン・ハールが死亡したとの報告も受けましてございます。」

「あの魔道士など、もはやどうでも良いわ。それよりなんとしてでも覇王の槍は手に入れなければならぬ。

 キラールだ。キラールを呼べ。」

 その名を聞き、老人が驚き顔を上げる。

「大旦那様・・。『黒の団』を派遣されるのですか?」

 侯爵はそう尋ねる執事に笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いた。

「あのカストリーバの包囲網を切り抜けられる者達だ。地元の衛兵なぞクソの役にもたつまい。

 『黒の団』を使う。」

「はは。早速手配を・・。」

 執事は確認を取るとうやうやしく頭を下げた。

「お呼びでしょうか。ウェンレーティン閣下。」

 執事が一礼した直後であろうか。黒づくめの男がもの音1つも立てず、侯爵の後ろで跪いていた。

「くくく。キラールか。

 覇王の槍の件は聞き及んでおろう。覇王の槍を奪取し、ここに持ち帰るのだ。

 手段は問わぬ。」

「・・は。」

 シュッと音がしたと思うとキラールの姿はもう消えていた。その間侯爵が振り返ることはない。

「くくく。相変わらず凄まじい男よ・・。」

 侯爵は満足げに笑うと、朝食を取るため大食堂へと足を進めるのであった。

 

 

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